原始社会は宗教、政治、魔術、医術はまだ独立分離してませんでした。
14世紀のルネッサンスの頃になって「サイエンス」と「オカルト」は分離され医術は医学として誰の目にも見えてさらに再現性のある「サイエンス」として出発することになります。
今から百数十年前の近代西洋医学はこれまで私たちの生存を脅かし続けていた病原菌を続々と発見し、これらの病原菌を取り除くことが出来れば人類は永遠に病気から開放されるという夢を抱きました。
オステオパシーはちょうどこのころにアメリカで生まれました。 医学史の中ではまだ若い。
オステオパシーの思想と手技はスコットランド系アメリカ人の4世、アンドリュー・テイラー・スティル(1828~1917)によって考案されました。
スティルはごく初期から婦人参政権を支持して奴隷制度に反対していた人で北軍の兵士としてまた軍医として南北戦争で戦いました。しかし、戦争が終わって以前と同じ医師の仕事に戻ったスティルは当時の医学に満足できずからだに本来備わっているはずの自然治癒力を最優先する治療法を研究しました。
観察を続けているうちにスティル博士はどんな病気の患者にも必ず筋骨格系の異常があることに気づき循環系と神経系のアンバランスが症状を起こしてるのではないかと考えはじめました。これを解決するには
1892年に最初のオステオパシー学校がアメリカミズーリ州、カークスビルに設立されました。
ちょうど同じ時期に細菌説が提唱され「あらゆる疾病過程に対する答えである」と考えられました。サルバルサンやペニシリンの発見と同時に魔法の弾丸である薬剤を発見しようと大々的な努力がはじまった。
疾病病原菌論は問題の微生物が発見され薬剤によって除去されさえずれば健康は回復し安定するという概念
オステオパシーの礎を作ってから現在に至るまでアメリカでは近代西洋医学とオステオパシーによる手技の効果がエビデンスとして比較され、科学的根拠も示されていった結果、D.O. (Doctor of Osteopathy)はM.D.(Doctor of Medicine)と法的に同等な医師として認められてます。
オステオパシーは解剖学に特化しているのが特徴で、解剖学に関しては西洋医学よりも上回っているとAMA (American Medical Association) Cline報告で実証されてます。つまり、人体のスペシャリストと言えます。
さらに、2004年にはワシントンのスミソニアン博物館でオステオパシーの展示が行われました。スミソニアン博物館はアメリカを代表する科学、産業、技術、芸術、自然史の博物館群・教育研究機関複合体であり、ここでオステオパシーの展示が行われたということは正式にサイエンスとして認められた証です。
アンドリュー・テイラー・スティル博士は1828年バージニア州で生まれます。
宣教師(医師)であった父をついで医師となりカンザス州の開業医になりますが、1864年頃、脳脊髄膜炎で一度に3人の子ども、さらに他の伝染病で最愛の妻と父を失ってしまいます。
この出来事をきっかけに当時の医学に対して疑問を抱き解剖学を中心に徹底的に医学を見直しました。今では考えられませんがインディアンの墓を掘り出して人体の構造を調べたりもしたそうです。
もっと詳しく歴史を知りたい方はこちらへ。
スティル博士がオステオパシーの礎を作ってから現在に至るまでアメリカでは近代西洋医学とオステオパシーによる手技の効果がエビデンスとして比較され、科学的根拠も示されていった結果、D.O. (Doctor of Osteopathy)はM.D.(Doctor of Medicine)と法的に同等な医師として認められてます。
オステオパシーは解剖学に特化しているのが特徴で、解剖学に関しては西洋医学よりも上回っているとAMA (American Medical Association) Cline報告で実証されてます。つまり、人体のスペシャリストと言えます。
さらに、2004年にはワシントンのスミソニアン博物館でオステオパシーの展示が行われました。スミソニアン博物館はアメリカを代表する科学、産業、技術、芸術、自然史の博物館群・教育研究機関複合体であり、ここでオステオパシーの展示が行われたということは正式にサイエンスとして認められた証です。
オステオパシーは発祥の地アメリカだけでなくイギリスやフランスなどのヨーロッパ各国、オセアニアでも国家資格として認められてます。先進国の中で国家資格として認められてないのは日本だけです。日本では民間資格(MRO(J))としてのみ行われています。
スポーツ分野においても2012年のロンドン五輪からカイロプラティック、オステオパシー、理学療法、スポーツマッサージの頭文字を取ったCOPSが協力して選手村ポリ・クリニックで選手のケアを行ってます。ロンドン五輪からスタートしたCOPSでのメディカルサービスは2016年のリオ五輪でも継続され発展してきましたが、なぜか2020年の東京で途絶えてしまうことになりました。途絶えてしまった理由は不明です。
オステオパシーは4つの原理があります。
近代西洋医学は人体をパーツの集合体としてとらえます。脳神経外科、整形外科、呼吸器科、循環器科、消化器科など分野が細かくわかれていることからもイメージしやすいと思います。
病気の原因になっているパーツを見つけてこのパーツを正常に戻せば病気は治療できたことになります。さまざまな検査を行いデータや画像を検討して平均的なものからどれぐらいずれているかで正常か異常かを判断します。たとえ症状があってもデータとして明確な異常が表れないと治療法を決めにくくなります。
東洋医学は人体全体を一つのものであるとしてとらえます。からだのある部分の調子が悪くなったとしてもこのパーツではなくからだ全体の調子を整えることである部分の症状も消えるという考え方です。からだ全体の調子なので肉体だけでなく心の状態も入っているのが特徴です。
オステオパシーは西洋医学の科学的な要素を残しつつ東洋医学の人体を一つのユニットとしてとらえる両方の良い面を持っています。
日本に最初にオステオパシーが紹介されたのは、明治の終わりごろ、1910年前後と伝えられています。
1920(大正9年)
日本で山田式整軆術講義録が発行される。本書の中にオステオパシーの言葉が紹介される。
オステオパシーに関係する日本最初の書籍「山田式整体術講義録」が発行されるが、ほかの療術と合わせて編み出した方法を「整体術」として紹介したため徐々にオステオパシーの原型は変化していまい、オステオパシーという言葉も伝わらなかったと考えられます。
その後欧米からの情報が途絶えていた時期が長く、戦後になってようやく交流が再開され、イギリスのDr. アラン・スタッダードが2度来日しました。
1965年
日本武道医学会の中山清先生が日本人として初めてカリフォルニアでアメリカのオステオパシーと正式な技術交流を行った。同年、呉竹学園で交流報告会が開催される。
日本武道医学会内で、オステオパシー医学研究部門が設立されます。
現在は毎年多くの国際セミナーが開催され、世界の最新技術・情報がもたらされ、AAO(American Academy of Osteopathy)をはじめ、世界のオステオパシー業界と活発な交流があります。